京都散歩(4) 五辻通りを歩く。首途八幡宮(かどではちまんぐう) 京都市上京区・京都七野・源義経 20210925

 

五辻通・智恵光院

五辻通りを西に進み、智恵子院通りとの交差点にイオンがあった。名前も「イオンスタイル西陣小町」と少しスマートな名前だ。

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こじんまりした感じの店だが、わりと賑わっていそう。

京都の通りの唄 南北の通りの唄の出る通りは、智恵光院通りを過ぎると、浄福寺通りと千本通りを残すだけ。

交差点に立って左手(南)の方を見ると、今出川通りが見えた。その手前に見たことのある景色があった。首途八幡宮だった。

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首途八幡宮

一度来たことがある。3年半前2018年2月11日。寒い日だった。四条烏丸から歩き始めて、西と北の方向に向かって歩いた。白峯神社に参拝して上七軒まで行った。北野の歌舞練場周りなどなどウロウロした。その途中で首途八幡宮に立ち寄った。

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境内は3年半前に行った時と変わっていなかった。ただ、違うのは、人影がないこと。3年半前は、寒かったが、人はいた。

 

この八幡宮は、

宇佐神宮(大分県宇佐市にある八幡宮の総本宮)から八幡大神を勧請したのが始まりと伝えられ、誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇)、比咩(ヒメ)大神、息長帯姫命(神功皇后)を祭神とする。

もとの名を「内野八幡宮」といい、平安京の大内裏の北東に位置したため、王城鎮護の神とされた。
 かつて、この地には奥州(東北地方)で産出される金を京で商うことを生業としていた金売吉次の屋敷があったと伝えられて、源義経(牛若丸)は、奥州平泉に赴く際に、吉次の助けを得てここで道中の安全を祈願して出発さいといわれている。「首途」とは「出発」を意味し、この由緒により「首途八幡宮」とよばれるようになった。
このころから、特に旅立ち、旅行安全のかみとして信仰を集めいている。
(京都市首途八幡宮案内書き看板より)

内裏のあったあたりは、後に建物も開くなり内野と呼ばれるようになったようだ。この八幡宮は内裏から少し離れたところにあるが内野と呼ばれたいたのだろう。内野八幡宮とよばれたようだ。

   

 

京都の七野

京都の七野は、内野を除いて、京都市の上京や北区にある。

七野は、紫野、蓮台野、北野、点野、内野。これらのほかにも、七野に入れられる野がある。紫野は貴族の狩りの場所であったりしたようだ。七野の中で一番広そうだ。蓮台野は風葬の地でもあった。平安末期では、盗賊などがいる物騒な草原だったかもしれない。内野は、かつての内裏がある平安京の中心だったが、平安末期には、京都の街の端に追いやられていた。広い朱雀大路も畑や田んぼ、馬や牛をかう場所に使われたようだ。

首途八幡宮より北に歩いて行くと紫野、上野、北西に向かっていくと北野、平野、さらに進むと、蓮台野がある。七野のうち点野の場所はわからないようだ。

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源義経と金売吉次

1174年に源義経が東北に旅立つ時に立ち寄り、旅の安全と武勇の上達を願った。この時は、義経は14歳か15歳。翌年に東北に向かう途中で元服し、義経と名乗ったようだ。このころはまだ、
 歴史は変わっているかもしれないが、吉川英治氏の「新平家物語」では、義経が金売吉次に伴われて東北行ったのは、牛若丸のころ。鞍馬いた牛若丸は平家の探索から逃れるために、吉次につれられて、吉次と関係の深い藤原秀衡の東北平の泉に旅立った。

新平家物語 源行家

蛇足が、新平家物語で、よく行く和歌山県の新宮の話が出来る。
義経は、東北に行ったあと、和歌山県の新宮に行き、そこで、新宮行家(源行家)に合う。新平家物語では、行家は御白河法皇の三男の以仁王の打倒平家の挙兵に加わり、失敗するも王の文書を頼朝、義仲に届け、打倒平家、源氏再興の挙兵を促した。都では義家を庇護したりぉした。

また、義経は新宮で働いていた弁慶の母とも会う。新宮行家は、平氏打倒に大きな役割を果たしている。

源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、平安時代末期の武将。河内源氏第五代源為義の十男。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した。 (ウィキペディア「源行家」より)

弁慶は、和歌山県田辺市で生まれたとされている。弁慶と父の湛増とが並んだ碑が闘鶏神社にある。弁慶の父湛増は熊野水軍の統率者であった。源氏も平氏も、熊野水軍を統率する熊野別当の湛増を味方に取り入れようとした。弁慶も父湛増の元へ行き説得をした。湛増は神意を確かめるべく闘鶏神社で赤と白の鶏を戦わせて決めたとされている。湛増を味方につけることが戦況にどれだけ影響を与えたかは、後の源氏と平氏の戦いを見るとわかるような気がする。
こうしてみると、平安末期は、熊野三山を含め、中央とのつながりは深かったようだ。平清盛の異母弟の平忠度も和歌山の本宮近くの出生である。
また、東北から新宮へも舟で行くことができたようだ。

   

 

首途八幡宮

↓首途八幡宮
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八幡宮の前を通る人も「名前を見て「いい名前ね」と言って通り過ぎていった。境内には誰もいなかった。

前回いったのは、真冬、曇りだった。この日は、初秋の晴れの日、緑もまだきれいだった。

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五辻通りに戻り、西に向いて歩いた。