散歩と写真(京都・大阪・・)

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難波宮 内裏西方官衙 法円坂遺跡 内裏東方遺跡 女性天皇が多く即位した時代。 2019(31)0420

元号が「平成」から「令和」に変わった。天皇陛下皇位継承がおこなわれた。

以前に紹介した「難波宮」。

難波宮」は当時の地形や、皇室の在り方を見ていくととても興味深いものがある。

皇室を見てみると、複雑だった。

難波宮は第一期と第二期とあるのでそれぞれ調べてみた。

第一期は(645-655)652年(白雉3年)に完成
乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)(645年)のころ難波宮に遷都した。皇極天皇(天智天皇天武天皇の母)が乙巳の変で功績のあった中大兄皇子(天智天皇)に皇位を継承しようとしたが、中大兄皇子は断った。結果中大兄皇子の叔父の軽皇子が「孝徳天皇」として即位(645年)した。しかし、実権は中大兄皇子が握っていた。

皇極天皇から孝徳天皇へ譲位がなされた。歴史上初の譲位のようだ。
 孝徳天皇が即位して、難波宮に遷都した。数年後、中大兄皇子が大和に戻るという話を断った。天皇の意に反して、実権者の中大兄皇子について、皇極上皇や政府の主だった人が中大兄皇子と大和に移った。置き去り同然の孝徳天皇は、655年(白雉4年)この難波宮の地で寂しい最後を迎えたとようだ。

後に天武天皇が、複都制の詔によって、再度都となったが、686年に全焼した。

第二期は(744年-745年)726年に造営を始めた。
聖武天皇の頃。聖武天皇は遷都を繰り返した。その一つが「難波宮」だった。
聖武天皇は、天武天皇の曾孫にあたる。天智天皇の玄孫でもある。父の文武天皇聖武天皇首皇子・おびとのみこ)が7歳の時に亡くなった。
 中継ぎにとして、聖武天皇祖母元明天皇が即位した。元明天皇は、天智天皇の娘持統天皇の子で、文武天皇の母だった。文武天皇は、天武天皇持統天皇の子。
 そして、さらにその中継ぎとして聖武天皇叔母 元正天皇文武天皇の姉)が即位した。
 このようになったのは、聖武天皇が病弱であったのと、皇族関係派と聖武天皇外戚藤原氏との対立があったようだ。
 聖武天皇は、恭仁京に遷都し、難波宮に遷都し、まもなく、紫香楽へ遷都した。その時、前天皇元正上皇が難波の宮に置き去りにされたようになった。


難波宮いづれの時代も短期であった。桓武天皇が、長岡京に遷都する際に、難波宮大極殿などの建物が長岡京に移された。長岡京も短期であった。

話はそれるが、難波宮をめぐる天皇家の系譜を見てみると、女性天皇が多いように思う。
皇極天皇の前の前は推古天皇だった。推古天皇は歴代初の女性天皇だった。

推古天皇舒明天皇皇極天皇孝徳天皇斉明天皇重祚天智天皇弘文天皇天武天皇持統天皇文武天皇元明天皇元正天皇聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇重祚光仁天皇桓武天皇

18人の天皇重祚含む)うち8人が女性天皇だった。そのあと必ず、男子天皇の子の男子に位が渡っている。また、女性天皇はすべて天皇家の子だった。

 

   

 

法円坂遺跡 難波宮西方官衙

難波宮太極殿跡がある難波宮跡公園と法円坂交差点の斜めに向かい(対面)に大阪歴史博物館とNHKがある。建物の前は広い公開空地のようになている。そこに高床式住宅が一棟建っていいる。このあたりが、難波宮西方官衙遺跡と法円坂遺跡になるようだ。

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このあたりに、当時の高床式の建物が並んでいたのだろう。
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↑この辺りには、前期難波宮西方官衙法円坂遺跡があった。

 

法円坂遺跡

法円坂遺跡は、5世紀後半(古墳時代)に当時としては大きな建物群があったようだ。時代としては、難波宮より前にあったことになる。これらは倉庫とみられている。
1987年(昭和62年)の発掘調査で、巨大な建物群の跡が発見された。16棟建物が東西に整然と並んでいたようだ。幅10m奥行き9mと90㎡もあった。当時としては大きな建物だった。堺あたりの百舌古市に巨大な古墳を作った倭王権によって営まれたとみられているようだ。

6〜7世紀にかけては、このあたりには多くの建物が建つようになる。近くには難波津という港があり、物流の集散地として発達して、中国や朝鮮からの使節を迎えたり、遣隋使や遣唐使が発着するなど海外に開かれた地として古代史上に重要な位置を占めたようだ。

地形から見ると、昔は、上町台地は海にせり出した半島のようで、東は南や東に広がる湖(河内湖?)のようにになって上町台地の北で外海とつながっていたようだ。

古墳時代になると多少風景が変わるようだが、上町台地はほぼ北東西と海に接している感じだ。

「地形からみた歴史 古代景観を復原する」という本を紹介しているページにある地形図を見てみると前述の通りだった。一度この本を買ってみようと思う。 

地形からみた歴史 古代景観を復原する (講談社学術文庫)

地形からみた歴史 古代景観を復原する (講談社学術文庫)

 

 

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このような建物が建っていたのだろう。

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 難波宮内裏東遺跡

「 難波宮内裏東遺跡」という案内看板が建物駐輪場の前にあった。中央大通りや阪神高速東大阪線が通っていて、それらしいのものは一切なかった。

ただ、このあたりでは、阪神高速東大阪線は、ゆっくり下ってきて、上町台地の高さまで下りてくる。そして、法円坂行交差点を過ぎると、再び上がっていく。船場のあたりでは、ビル4階ほどの高さになる。上町台地で東より標高が高いのもあるが、このあたりに遺跡があるということで、地盤を掘ったりして遺跡を荒らすの避けるためのようだ。下の地図を見てもらうと、難波宮のあったとされるところを阪神高速東大阪線が通っている。その部分が、低くなっている。

この案内看板の前あたり。阪神高速難波宮あたりで地面の高さまで下がり、そして、また上がっていっている。

 

 

Googleマップで難波宮跡と西方官衙と東方遺跡と法円坂遺跡のおおよその位置を示してみた。オレンジが難波宮、ブルーが法円坂遺跡。