8月中頃に、琵琶湖疎水と瀬田の唐橋に行ったときに歩いた大津市。
JR大津駅
大阪駅から京都方面への新快速に乗ると、
京都駅を過ぎて、次の山科駅で、東海道線(琵琶湖線)と湖西線へと別れる。
それぞれ琵琶湖の東西の岸と通って「近江塩津」駅で再び一緒になる。
大津駅は、東海道線(琵琶湖線)の駅。
華階寺(けかいじ)のいちょう(二株)
このいちょうは華階寺旧境内にあった。大津駅前大通りにできるために、中央分離帯の緑地に保存されている。
華階寺のいちょうは、開基(1532年)に植えられたもとの伝えられている。いずれも樹齢400年を越えると考えられる巨木。
大津の町中、まだ夏の暑い日、日曜日ということもあって、人通りがほとんどない。
旧大津公会堂
今はレストランが入っている。
大津港
旧大津公会堂の横にあった歩道橋へあがり、少し歩くと、大津港がある。
大津港の最寄り駅は、京阪電車の「びわ湖浜大津」駅。
ここらから、琵琶湖の遊覧船が出ている。外輪船のミシガンが有名かも。
大津港
かつては琵琶湖湖上水運の拠点として栄えた。鉄道網の整備に伴い斜陽となった後は、遊覧船の発着拠点となっているほか、官公庁などが運航する各船の拠点にもなっている。また、併設のマリーナや公園として整備された緑地など、多用途のレジャーに利用されている。
古代 - 大津京の主要港として整備され、湖上運送の拠点になる。 中世 794年 - 平安京遷都により都の外港として栄える。 1586年 - 豊臣秀吉により大津城が築かれ、大津港は水運の要衝として栄える 。
(ウィキペディア「大津港」より)
大津港の横にある。映画館などがはいっている商業施設。
近江京跡
井上靖氏の「額田王」の最後に、壬申の乱の記述が少しある。
壬申の乱で大海人皇子が関ヶ原近くから、ずっと攻め上って、近江京へ向かう。
弘文天皇(大友皇子 天智天皇の子)と叔父大海人皇子の皇位継承の戦い。
骨肉の争いだ。
大友皇子は大海人皇子の妻(後の持統天皇兄弟)の弟。
この時代の血縁間関係は複雑だ。
この時から、天武天皇系統が重んじられ、なんとか、天武天皇の系統の男子が皇位継承できるように、天武天皇系統の母が、天皇になるという複雑な関係が続く。
琵琶湖疎水を過ぎてさらに北に向けてあるくと、大津市役所がある。
その前は、運動公園。
さらに北上すると、湖西線の「大津京」駅がある。
さらに北上すると、近江京遺跡が発掘された所につく。
数か所で遺跡が見つかっているようだ。
数か所あるが、この行ったのは「近江大津宮錦織遺跡第8地点」。
すぐ近くに「近江大津宮錦織遺跡第1地点」もあったが、行きそびれた。
近江京は、想像していたより、湖西の方にあった。
近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。 史料上は「近江大津宮」のほか「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの指摘もある[1]。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。