島原(その3) 歌舞練場、角屋、東鴻臚館趾、住吉神社、街並み 300813 2021年05月追記 島原 輪違屋

島原(2021年5月追記)

五花街「をどり」

新型コロナウィルスがなければ、
今頃は、
宮川町の「京をどり」(R3.4/2-4/11)、
祇園甲部の「都をどり」(R3年中止:代替公園「春の雅」途中で中止)
北野天満宮近くの上七軒の「北野をどり」(R3年中止)
がおわり、
先斗町の「鴨川をどり」(R3年中止)がはじまるころ。
11月には、祇園東部の「祇園をどり」が行われる。
「をどり」は五花街の多くが、それぞれの歌舞練場で行われる。
京都花街組合に加盟している5つ花街を五花街と言う。

島原

京都には、島原という花街もある。
島原を含めて京都の六花街とよばれることもある。

京都の島原は、京都市下京区の京都市中央卸売市場の南にほぼ隣接してある。

京都に島原?と思ったことがある。

島原のあたりの地名には「島原」という地名ないく、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている
なぜこのあたりが、島原といわれるのか?

かつては、二条万里小路(万里小路通りは現、柳馬場通り)あたりに「二条柳町」として開設された。そして、六条に移転し、そして、今のあたりに移転した。その移転の様がその頃起こった「島原の乱」に似ていることから「島原」と呼ばれるようになったと言う説がある。

 

ウィキペディアに紹介されていたのは、

1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある[2]。 

朱雀野は、中世以降、京都が荒廃した時の、田野となった朱雀大路あたりの呼称。島原のあたりはちょうど、朱雀大路のあとを通る千本通りの東に隣接してある。
JR山陰線の横を旧千本通りがとおっている。

歌舞練場跡

花街の島原にも歌舞練場はあった。
歌舞練場跡の石碑があった。
この場所は、昭和2年に移転してきた場所のようだ。
平成8年にお茶屋組合が解体され、120年の歴史を閉じることになった。

元の歌舞練場は、明治6年(1873年)に上之町に島原女紅場(にょこうば)として開設された。
歌舞練場跡地は中之町にあり、元の歌舞練場は、上之町なので、この場所より、南になるのだろうか?正面通あたりになるのかもしれない。

 ↓歌舞練場跡

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輪違屋(養花楼) 2021年5月一部追記

輪違屋は 元々は置屋、現在は太夫のみを抱えている。
置屋は:

輪違屋(わちがいや)は、京都府京都市下京区の花街、島原の置屋兼お茶屋である。現在も営業を続けている。 創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まる。置屋として創業当時の名は「養花楼」。お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治年(1871年)にほぼ現在の姿となった。 かつては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。表に「観覧謝絶」の札がある(いわゆる「一見さんおことわり」の店である)。 建物は昭和59年(1984年)に京都市指定有形文化財(建造物)に指定された。 (ウィキペディア「輪違屋」より)


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photo.talk-turkey.com

 

島原大門

花屋町通にある。
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角屋もてなしの文化美術館

花屋町通を西に進んで、奥に見えるのが島原大門、手前の建物が揚屋の角屋。
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揚屋(あげや) は、江戸時代、客が、置屋から太夫、天神、花魁などの高級遊女を呼んで遊んだ店。太夫は官許の遊女の最上位(江戸吉原では花魁)、天神はその次位で、揚げ代が25匁だったことから北野天神(北野天満宮)の縁日の25日にかけて天神と呼ばれた[1]。茶屋(お茶屋)より格上[1]。 (ウィキペディア「揚屋」より)

久坂玄端が密議をしたところ。花屋町通の角に碑が立っている。
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花屋町通は角屋を過ぎると突き当たり、直角に北に折れる。

 

 

   

 

東鴻臚館趾(ひがしこうろかんあと)

突き当たりに、東鴻臚館趾の石碑がある。

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ここは、島原の時代(江戸時代)より、時代が遡って、平安時代の建物の趾。

ここは、海外(主に渤海国)からの使節をもてなすのに使われたようだ。

そして、この碑のあるあたりはかつては朱雀大路近辺だった。

少し北に朱雀大路の趾の碑がある。

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島原住吉神社と島原西門碑

東鴻臚館趾のある角を曲がって、少し歩くと、島原住吉神社が目に入る。なんか目立つ。

青い巴の提灯が目立つ。

巴は太鼓のイメージがある。

太鼓マーク検索すると巴が出てきた。

その横に島原の門の趾の石碑がある。
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この青の巴の提灯は目立つ。
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住吉神社(すみよしじんじゃ)は、京都市下京区醒ヶ井通高辻下る住吉町481にある神社。旧称は新住吉社。千載院。平安時代後期に、後白河天皇の勅旨を受け、和歌の守護神として摂津国住吉大社より平安京烏丸五条(松原)の藤原俊成卿の邸宅に勧請された新住吉社を起源とする。応仁の乱により衰退するが、神体のみ災を逃れ、永禄十一年、正親町天皇の勅旨により現在地へ遷座されたと伝わる。新玉津島神社、人丸神社とともに、平安京に勧請された和歌三神の一社として崇敬を集める。 なお、京都市下京区には、当社の他に住吉神社(京都市下京区下松屋町通松原下る三丁目藪之内町617)、島原住吉神社(京都市下京区西新屋敷下之町1−6)の二社の住吉神社がある。 (ウィキペディア「住吉神社 (京都市下京区醒ヶ井)」より)

 

島原西門碑
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行った時は、ブラブラ写真を撮っただけだが、後から調べたりする。

島原はかつての朱雀大路の近くにあったとか、なんとなくわかることもこうして振り返ると、シミジミとわかってくる。

かつての朱雀大路の名残りとしての千本通はこの辺りでは、消えそうな感じ。

梅小路の鉄道博物館あたりから、新幹線の間。一旦来れる。

この辺りは梅小路が近い。

しかし、今の千本通りは、淀競馬場の近くまで続く。

かつての鳥羽街道は千本通りとなって。

京都はほんの何気ないところに、歴史の息吹を感じることができる街。

散歩には最適なところだ。

島原からJRを西に越えていくと、お土居跡がある。

昨年も島原に行ったが、夏だからか、黒い雨雲が空に立て込め、今にも雨が降りそうな様子だった。
昨年は、四条まで歩いている途中で、夕立にあった。この日も、帰ろうと思う頃に雷が鳴り、夕立の気配だった。