今城塚古墳は26代天皇の継体天皇の陵墓と言われている。もう一つ継体天皇の陵墓がある。もう一つの方が公認の継体天皇の陵墓だ。結果、継体天皇の陵墓が二箇所あることになる。
もう一つの陵墓は、茨木市の太田茶臼山古墳だ。こちらは宮内庁が継体天皇の陵墓としている。いわゆる公認の陵墓。
ただこの古墳は5世紀ごろのもの、継体天皇の時代より古い。継体天皇の在位は507年〜531年(日本書紀)の6世紀前半と合わない。この事から、今城塚古墳が継体天皇の陵墓だという説が有力視されている。
今城塚古墳は今城塚古代歴史館が隣接している。近代的で新しくとても綺麗な建物だ。
行ったときは、勾玉を作る体験できるコーナーがあった。常設展示場では今城塚古墳で発掘されたものが展示されている。ここは無料で入れる。有料の展示もある。期間限定の展示だ。
常設展示場では、古墳で発掘された実物も展示されている。実物を身近に見ることができる。
また、古墳は公園になっていて、誰でも自由に出入りできる。陵墓の周りの堀は半分埋められて芝生が敷き詰められている。その周辺も芝生が敷き詰められていた。市民の憩いの場になるように思うが、日曜日なのに意外と人が少ない。
埴輪の模型が並んでいる。
ポイントポイントに説明版が設置されていた。下の写真は陵墓の上にあった説明版。こう言ったのが十数箇所陵墓周辺にある。
陵墓の上にも上がることができる。
もし、宮内庁がここを継体天皇の陵墓と認めたら、陵墓の上に行くことはできないだろう。
墳丘の大きさは190mほどで、16代の仁徳天皇陵の約486mの大きさと比べると、小さい。
当時の大和政権の力が仁徳天皇の時より弱くなっていたのかとも思える。
継体天皇は、天皇家の中でも興味深い。諸説がある。「日本書紀」と「古事記」では継体天皇の生年が大きく違う。没年も違う。
『記紀』の記述を尊重すれば、継体天皇を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。しかし戦後に、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになり、継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐「三王朝交替説」)などが提唱された。(ウィキペディア「継体天皇」より)
継体天皇の即位は
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。(ウィキペディア「継体天皇」より)
歴史の話は面白い。継体天皇の何世か後の桓武天皇はこの古墳の近くに長岡京に遷都した。
このあたりは三島古墳群と言って古墳が多く出土する場所。
高槻市や茨木市だけでなく隣の京都府の長岡京市、向日市にも多くの古墳がある。