「閘門(こうもん)」珍しい字、滅多に見かけない。ここに来るまでは意識したことがなく、読めなかった。
大阪にも船舶の航行のための「閘門」の機能を備えた「毛馬水門」がある。旧淀川への入り口。新淀川ができるときに作られた。旧淀川を守るためだろう。毛馬の水門を通って旧淀川の大川を下ると大阪城の近くに行ける。伏見には「三栖閘門」があり、伏見城からは遠くない
閘門と似たシステムとしては「スエズ運河」や「パナマ運河」だと思う。
水面の高さが違うところで船が行き来できるようにするあためだ。
伏見にはかつて「港」があった。その跡地へ行ってみようと思った。
その近くに「三栖閘門(みす こうもん)」があった。
京都と大阪の間の物流交通の要所だった。
この三栖閘門もそうだった。
しかし、今は、短いその役割を終えて、観光十石船の船着場になっている。
聞くと、この閘門は動くことはもうない。
近くにある資料館の入り口入ったところには、往時の写真が大きなパネルにして展示してあった。水量も豊富で、船舶が行き交い、人が人がたくさん写っていた。
淀川水域はよく川が氾濫して水害がおきていた。新淀川も水害対策として作られたのだろう。
昔は淀川水系は、よく氾濫した。それに耐えながらも、淀川を交通手段として利用していた。
災害をなくそうと押さえつけるのではなく、利用しさらに便を良くする事で水害を減らす工夫がなされたように思える。当時は、人口も少なく、今のように権利意識も少なく、土地の収容もしやすかったのかもしてない。
↓宇治川の川べり近くまで降りることができる。
↓下はしっかりコンクリート固められていた。
上流の水門と奥が川側の水門。
↓現役の水門。三栖閘門のすぐ側にある。水門の一つだけが開いていた。
この日は宇治川派流の水位は少し高い感じがした。
この辺りは「伏見みなと広場」。
その手前に、縄張りがあった。
人も少なく、たまに十石船がついた時に人が歩いているぐらいで、この時期に行くとのんびりでいい所だ。
あとは宇治川派流沿散策し、酒蔵でチョット一杯なんて、いいよ。
水と人との闘いと共生はいつの時代もある。
今は水が多すぎて災害が起きて困っている。しかし、水不足となるとさらに深刻な事態になる。
水と人の関係は多すぎたり、少な過ぎたり、ちょうど良かったり、この縁は永遠のものだろ。
水と良い関係を築くことが「治水」というのかもしれない。
治水が整わない時は、世は乱れる。