白峯神宮 崇徳上皇・淳仁天皇を祀ると同時にサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護、3002011

白峯神宮は、孝明天皇の思いを受けて、明治天皇の厚い要望で造営された。

白峯神宮

ここには崇徳上皇と淳仁天皇が祀られている。

天皇家でも不遇な目に遭った天皇を祀る神宮。

それもあってか、白峯神宮と神宮を名乗っている。

明治以降、天皇、皇室の祖先神や大和平定に功績のある特定の神を祭神とする神社の一部が、社号を「神社」から「神宮」に改めた。しかし、仁徳天皇を祀る難波神社や高津宮が神宮ではないように、全てにおいてそうではない。第二次世界大戦終戦までは、「神宮」の社号を名乗るためには勅許が必要であった。
戦後は神社の国家管理は廃止されたため、「神宮」号を名乗る際に勅許は不要となった。しかし現在でもなお神社本庁傘下において、「神宮」を公式な社号として名乗る神社は特別の由緒を持つものに限られている。(ウィキペディア「神宮」より)

 

崇徳上皇は、保元の乱に敗れ、皇位を奪われ、讃岐に流された。京への思いを募らせるが、かなわず、恨みを抱きつつ崩御した天皇。相当の恨みがあっただろう。それは京都にも伝わっていたのだろう。崇徳上皇の死後立て続けにに天皇家に限らず災いが起こった。皇室や摂関家の不幸、大火、反乱があった。それらは、崇徳上皇の呪いかと恐れられた。崇徳上皇が保元の乱を起こすまでには、親族のいろいろな争いがあったようだ。これは、今でもよくある相続問題に似ている気がする。

しかし、崇徳上皇の思いは、すさましく、その思いは、舌を噛み来た血で、呪いの写経をしたほどのようだ。

以降、京でなにか災いがあると、崇徳上皇の呪いとも思われたようだ。

積善寺には「人喰い地蔵」がある。
これは、「すとくいん」が訛って「ひとくい」なったとも聞く。
京都の人が厄災がつづくのを崇徳上皇の呪いと思い、その霊を慰めるために聖護院の森に地蔵を祀ったそうだ。

崇徳上皇は没後、讃岐の白峯稜に白峯権現として祀られていた。
江戸末期、孝明天皇は異郷の地に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるために、ご神体を京都に移すように幕府に命令を発したが、まもなく崩御した。明治天皇がその意思を引き継いで、讃岐からご神体を移して、白峯宮を創建した。

 

崇徳上皇の詠んだ和歌は、小倉百人一首に残されている。

「瀬を早(はや)み 岩にせかるる 滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に 逢はむとぞ思ふ」

 創建のちしばらくして、淡路島に流罪された淳仁天皇の祭神も迎えたようだ。

江戸時代末期、時代が大きく動き出した時期。

孝明天皇は、世の平和を願って、争乱を鎮めるために、崇徳上皇の霊を慰めるために京都に祀りたかったのかもしれない。

 

   

 

白峯神宮は、崇徳上皇を祭神としていると聞いていたので、どのような雰囲気か興味があった。

 参ってみると、意外や意外だった。スポーツの守護神でもある。

白峯神宮のある土地は、蹴鞠若の宗家飛鳥井家の邸跡でだった。同家の守護神「まり精大明神」が祀られ、球技井愛好家に崇敬されている。

明治維新の後、飛鳥井雅望の時伯爵に列せられた。また、明治維新に伴い、邸宅は東京に移転したが、それに伴い空き地となった邸宅跡に創建されたのが白峯神宮である。飛鳥井家が蹴鞠の師範だったこともあり、境内地に地主社として蹴鞠の守護神が祀られており、現在はサッカー・球技全般の神とされている。 (ウィキペディア「飛鳥井家」より)

 奉納蹴鞠

白峯神宮の蹴鞠保存会によって、毎年4月14日(春季例大祭・淳仁天皇祭)と7月7日(精大明神例祭・七夕祭)に奉納蹴鞠が行われている。

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社務所の売店には、サッカーボール、野球の硬球や軟球などが収められていて、それを持って記念撮影もできるようだ。

撫子桜

なでしこジャパンの「なでしこ」という名前の「なでしこ桜」があった。

 

 

 

 潜龍社(せんりゅうしゃ)

 潜龍社(せんりゅうしゃ)が白峯神宮の境内の隅っこにあった。 

 潜龍大神は、家系にまつわる諸々の悪縁を水に流し「良縁」と成し、病気平癒、事業隆昌など寿福長命に霊験あらたかな神として篤く崇敬されています。( 境内内「潜龍社」説明より

笑い龍がある。

「笑う」ことは、いいことだと思う。

「笑う」ことは薬だというようなことが説明文に書いてあった。

ともても、ほんわかするような「龍」の彫り物があった。

もめごとも争いごとも恨み言も血肉の争いも、笑って済ませることができっれば、多くの人の血を見ずに、恨みや憎しみも生まずに、平和だったろうと思う。 

「笑い」や「笑顔」は場を和やかにする。

それを忘れると、残念な結果になるのだろうと思う。