先月、伏見桃山城に行った。しかし、今ある城は秀吉や家康が建てた城ではない。伏見城はずっと昔に廃城になった。
当時は、伏見桃山城とは言わなかったはず。
もし現存すれば、伏見城と言った方がいいかもしれない。
この地が「桃山」と呼ばれるようになったのは、江戸時代だろう。伏見城が廃城になったあとのようだ。
廃城後
城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて桃山と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として桃山城と呼ばれる由来となった。(ウィキペディア「伏見城」より)
伏見城には、秀吉の隠居所を目的として作られた指月伏見城と、指月伏見城が地震で倒壊のあと建てられた木幡山伏見城があった。
その木幡山伏見城の本丸にあったろころが、今は、明治天皇の陵墓の桃山御陵になっている。
この地が明治天皇の陵墓になったのは、明治天皇の遺言によるようだ。
明治天皇は京都で生まれた最後の天皇ではないだろうか。
明治天皇は京都で生まれたこともあって京都への郷愁もあったのだろうか?
崩御後は京都に戻りたかったのかもしれない。
上円下方墳。天智天皇陵をモデルにしたようだ。
近くには皇后の陵墓もある。
陵墓の前は南にひらけ、視界にはかつて巨椋池が広がっていただろうし、宇治の方が望めただろう。宇治といえば、源氏物語や平等院鳳凰堂などがあったり、皇族が貴族にゆかりのあるところ。
また、このあたりは、桓武天皇の柏原陵にもほど近い。京阪「丹波橋」駅の横に石碑があった。
伏見桃山御陵の麓には乃木神社がある。明治天皇の崩御に殉じた乃木将軍が祀られている。乃木将軍は明治天皇の近くにいたいのだろう。
伏見桃山御陵への行き方
伏見桃山御陵に行くには、二つのアプローチ方法がある。
一つは長い、ほとんど上っているとわからないくらいの緩いのぼり坂で、鬱蒼ととした木々に挟まれた、幅数十メートルある砂利道を15分程度歩く方法。
入り口の石碑
もう一つは、上の写真の石碑の前を通りすぎて、道路沿いの歩道を歩いて、桃山御陵の正面にまわる方法だ。そこは豊国廟とおなじく長い急な階段があった。
その階段を降りてみてわかったが、わりと段差があった。バランスを崩さないようにゆっくりと降りた。とても急な階段だ。しかし、年配の人が、この階段を上がっていた。
ここへの 最寄り駅は、
京阪本線「伏見桃山」駅、京阪宇治線「桃山南口」駅、近鉄京都線「桃山御陵前」駅、JR奈良線「桃山」駅。
この日は京阪丹波橋駅から歩いた。近鉄「桃山御陵前」駅近くまで行った。
近鉄「桃山御陵前」の近くに出て、駅近くから「伏見桃山御陵」に向かって歩いた。歩き出すと、すぐに黒田節の発祥の地の立て看板があった。
そして、御香宮神社
御香宮神社をぎてまっすぐあるいた。ゆる~い上り坂を歩いて上がった。
きつい階段を上らなければ、いい散歩道だと思った。