散歩

スマホで撮った写真 京都・大阪・和歌山など。

鳥羽伏見の戦い 勃発の石碑 300429

伏見界隈を歩いていると、京都市市内の中心部(洛中)に比べると、雰囲気といい、史跡といいい、時代が下って、明治が中心になる。雰囲気が洛中とは違っている。洛中を歩いているより人が少なく歩きやすい。

この辺りが繁盛し始めたのは、安土桃山時代

秀吉が伏見城を作ってからだろう。

伏見より北に鳥羽という地名がある。このあたりを歩くまでは、鳥羽と伏見は同じところにあるものと思っていた。

鳥羽(とば)とは、かつて京都洛外、山城国紀伊郡に属していた鳥羽郷(とばごう)・鳥羽荘(とばのしょう)などと呼ばれた地域を指す名称。現在では京都市でも南区に属する上鳥羽・伏見区に属する下鳥羽に分割されている。 (ウィキペディア「鳥羽(洛外)」より) 

ここで、歴史を変える大きな戦があった。

鳥羽伏見の戦い」は、大政奉還のあと、明治元年の1868年1月3日のこの地での紛争を端緒に、新政府と日本の代表権を失った幕府軍との戦いだ。この戦いでは、新政府軍約5,000に対し、旧幕府軍は、新選組を加え約20,000だったが、政府軍が火力にまさりっていた、結果、旧幕府軍撤退することとなる。この戦争が勃発したのがこのあたりとのこと、京都に行く旧幕府軍が小枝橋をわたろうとするのを、政府軍の薩摩藩が阻止したことに始まるようだ。この戦いが二年に続く戊辰戦争に続いていく。この戦が原因ともいえるかもしない、戊辰戦争のさ中、政府は江戸の不安を抑える意味でもあってか、天皇は江戸に移ってしまう。

この橋を渡るのわたらせないのでもめたようだ。

 

   

千本通と小枝橋

小枝橋で、京都の東を流れる「鴨川」と京都の真ん中あたりを通るかつての朱雀通りだった千本通りが交差する。千本通りは鴨川沿いに南に、小枝橋で鴨川をわたり、すぐ南に下り、すぐ東にそして、前出の「鳥羽伏見の戦跡」の石碑の角を南に向かう。鳥羽殿跡の横をとって、京阪電車の「淀」駅の近くの「納所」の交差点まで続く。
上京の船岡山から淀の近くの「納所」まで千本通りは途中JRで分断されながながらも長く続いている。ただ、九条以南はかつての「鳥羽街道」だったようだ。

「鳥羽離宮跡公園」の小高い丘に、鳥羽伏見の戦いの経緯を記した石碑があった。行ったとき、歴史愛好家グループがいた。その中で漢文に詳しい人が石碑に書かれた漢文を読んで説明していた。石碑に掘られた文字なのでとても読みにくく、もともと漢文が全く読めないので、見てもチンプンカンプンだった。

丘のふもとに日本語で書いた説明文があったが、これも彫られた文字だった。

同じ公園の南に「鳥羽離宮南殿」の説明書きがあった。

この運動場も「鳥羽離宮南殿」の遺構があるという看板があった。この日は近所の子供たちがサッカーの練習をしていた。