伏見桃山城  伏見  300414

京阪「丹波橋」駅を近鉄側で出て、ゆるいのぼり坂を上がってゆき、国道24号線をわたり、横ををJR奈良線を渡って、ゆるいのぼり坂をさらに上がっていった。

伏見桃山城は、このお城は何度も倒壊したり、戦場になったりして、江戸時代に廃城になった。歴史的にも有名なので、観光地かとお思っていた。

伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。(ウィキペディア「伏見城」より) 

伏見桃山城

豊臣秀吉は晩年この城で過ごし没した。秀頼が大阪城に移り、続いて家康も大阪城に移るまでは、この城の周りに大名屋敷があったようだ。この時、伏見城下はにぎわったらだろう。しかし、秀頼や家康が大阪城に移ったことで、この伏見城の城下はすたれていった。

 今の城は昭和に建てられたもののようだ。元々の伏見城は、今の城の近くで、伏見桃山陵のあたりにあった。

なぜ桃山といわれるかというと、

城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて桃山と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として桃山城と呼ばれる由来となった 。(ウィキペディア「伏見城」より) 

 桃山は後付けかな。
安土桃山時代の「桃山」も秀吉が伏見城を居城としたころからのようだ。

織田信長の居城であった安土城、豊臣秀吉の居城伏見城のあった桃山丘陵から、このように呼ばれる。特に、豊臣家が全国支配を担った後半を桃山時代といい、この時代を中心に栄えた文化を桃山文化と呼ぶ。 (ウィキペディア「安土桃山時代」より)

 今の城は、1964年(昭和39年)に「伏見桃山キャッスルランド」が建設されるときに洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして 建てられたもの。平成15年(2003年)に閉園した。当時の面影を残した鉄筋コンクリート造の城だ。

色々とお城を見たことがあるが、他とちょっと違った印象を持った。

 

観光地ではないようで、人影も少なく。横にあるスポーツ公園に行く人に合うくらい。

城の中を見ることができないので、周りをうろうろして、写真を撮った。

 

   

 

 

 

   

 

木幡山伏見城の跡地の「伏見桃山陵」へは行かなかったが。指月伏見城の跡へは行ってみた。

住宅地のまんなかに、説明標識があっただけでだった。