【京都東西の通り名の唄】し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな ろくじょう 「京都の通り名の唄」 H290610

 

「まる たけ えびす に おし おいけ あね さん ろっかく たこ にしき」の続き。

 「し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな ろくじょう」と歩いてみた。

 ★し (四条通り)

あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

 

四条通りは、京都の中心と言っても過言ではないほど、混み合っている。

この日も、東向きは烏丸四条交差点付近は、バスやら自動車が入り乱れている感じだったが、新町通りあたりまで西に行くと、すいていた。

 

↓この先は、四条烏丸から四条河原町そして鴨川を超えて八坂神社。

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★あや(綾小路)

あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

東は寺町通から西は天神川通の二筋西まで。重要文化財の杉本家住宅をはじめ、裕福な商人の多かった通りである。坊城通下ルに壬生寺、新選組壬生屯所跡がある。(ウィキペディア 「綾小路通」より)

新町通と綾小路の交叉するあたり。

綾小路通り

綾小路通り

長江家住宅。新町通り、綾小路通りと仏光寺通りの間に

長江家住宅

★ぶっ(仏光寺通)

し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

東は鴨川右岸堤防から西は佐井西通まで。名称は、天正14年(1586年)に移転してきた佛光寺の北に面することに由来する。近世までは現在の高辻通を仏光寺通と呼び、仏光寺通を旧称の五条坊門通と呼ぶこともあった。

(ウィキペディア 「仏光寺通り」より)

仏光寺通り

仏光寺。高辻通りから撮った。高辻通りからの方が入り易そうだ。

仏光寺

仏光寺

 ★たか (高辻通り)

 し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

 

高辻通りは、綾小路通りや仏光寺通りに比べて、片側一車線の交通量の多い通りだ。

東は鴨川右岸堤防から西は梅津街道まで。

通りの名前は、醒ヶ井通との交差点付近が洛中で一番高い所であったことに由来する。豊臣秀吉によって佛光寺が現在の地に移されてから、近世までは佛光寺の南に面するこの通りを仏光寺通と呼び、現在の仏光寺通を五条坊門通と呼ぶこともあった。また江戸時代には通りの柳馬場通から東洞院通にかけて藪があったため、藪の下通とも呼ばれていた。(ウィキペディア 「高辻通り」より)

高辻麩屋町

   

 

★まつ (松原通り)

 し あや ぶっ たか まつ まん  ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

かつての五条通り。清水寺の参詣道。ずっと東に行くと、鴨川を超えて、清水坂に続く。

↓高宮通りと松原通りが交差するあたり。一本西は西洞院通り。

松原通り

西洞院通りと交差することろに義経と弁慶が出会った場所とされている五條天神社がある。

五条天神

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★まん (万寿寺通り)

し あや ぶっ たか まつ まん  ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

 平安京の樋口小路にあたる。松原通と五条通の間。 東は寺町通と河原町通の交差点から、西は葛野西通まで。東の延長線上の路地と、さらに東の鴨川をはさんで六波羅裏門通につながる道も万寿寺通の名前で呼ばれることがある。

 通りの名は東洞院通との交差点にかつてあった京都五山の一つ万寿寺に由来する。(ウィキペディア 「万寿寺通」より)

万寿寺通り

★ごじょう (五条通り)

し あや ぶっ たか まつ まん  ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

 

東西に走る通りで幅の広い道路 

堀川五条から東は国道一号線、西は国道9号線になっている。

 通りの東は東大路通との交差点である五条坂交差点付近から五条坂と呼ばれ、五条坂交差点からは清水寺に向かう細い道となり、清水道(松原通の東端部)と合流する。なお、国道1号は東大路通を立体交差で越えて五条バイパスとなり、渋谷通と合流して東山を越え山科盆地へ続く。

平安京の六条坊門小路にあたる((ウィキペディア 「五條通り」より)

 

 東向き 烏丸通り、河原町通り、鴨川を超えて五条坂、国道はバイパスを通って東に、五条通りは五条坂をのぼって清水寺に、清水寺の手前で松原通りと合流する。 

秀吉が方広寺を建立したときに、方広寺への参道として五条通りとされたようだ。旧五条通りは、松並木があっため松原通とされたようだ。

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西向き

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ここさきは、わかりにくい、通りの名前が変わっていたりするなど、諸説ありる。

 

★せった (雪駄屋町通  現:楊梅通)

し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

 

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★ちゃらちゃら (鍵屋町通・銭屋町通)

し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

↓現鍵屋通

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一本南の銭屋通とも

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鍵屋町にあった町内地図

   

 

★うおのたな (現 六条通?新町から)

し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう せった ちゃらちゃら うおのたな  ろくじょう

 

あるサイトによれば、六条通りとあった。京都検定の記事も書いてあったので、京都検定は六条通が「魚の棚」になるかもしれない。

下魚棚通(七条通の一筋南の通)から魚市が移転し、魚棚通とも呼ばれていたが、下魚棚通と区別するために東寺内魚棚通とも呼ばれていました。現在も新町通から油小路通までは小規模な六条商店街がありますが、これはかつての魚棚の名残であり、道幅も当時から変わりません。(一路一会「六条通」より)

六条通の古い町並み

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★ろくじょう (六条通 三哲通(塩小路通り?)

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二条、三条、四条、五条、七条、八条、九条などと比べると、目立たない通りだ。

あまり存在感がない通りだ。

三哲通りは今の七条より南の京都駅近くにある「塩小路通」だという説がある。

 現六条通。東から新町通突き当り、少し北に上の「魚の棚」の商店街のような通につづく。

この通りの町名は「東魚屋町」「西魚屋町」となっている。

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六条通りは、河原町通りから烏丸通りまでは、片側二車線の道路となっている。

新六条通りといわれているようだ。富小路以西が平安京の六条大路にあたるようだ。

六条通り(京都)

河原町通と烏丸通の間の新六条通では2車線あるものの、烏丸通から西、堀川通までは自動車はおろか原付バイクの離合(すれ違い)さえ困難を来たすほど細くなっている。また、東洞院通から富小路通の間は、北側に旧六条通があり、烏丸通以西と同様に細い通りとなっている。 (ウィキペディア「六条通り」より)

三哲通り

東西の唄には「・・ろくじょうさんてつ・・」というバージョンの唄もある。

三哲通りは、今の塩小路通りともいわている。

今の塩小路通りは、京都駅前を通る道。七條通りより南にある。

「・・ろくじょうさんてつ(三哲)とおりすぎ ひっちょう(七条通り)こえれば・・」では南北が逆になっている。

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 あとは七条、八条、九条と大通りが続く。

番外:花屋敷通り(はなやちょうとおり)

京都通りの唄には出てこないが、花屋町通りがある。

室町通を南へくだっていくと、東本願寺でいきあたる。

花屋町通りは東本願寺の北を通る道。

 

↓突き当りが東本願寺、手前を通るのが花屋町通り。東本願寺越しに京都タワーが見える。

↓花屋町通り(烏丸通り交差点から)

↓烏丸交差点から京都タワー

東西の唄には別のバージョンがあります。

坊さん頭は 丸太町
つるっとすべって 高屋町
水の流れは 夷川(えびすかわ)
二条で買うた 生薬(きぐすり)を
ただでやるのは 押小路
御池で出逢うた 姉三(あねさん)に
六銭ももろうて 蛸買うて(たここうて)
錦で落として 四かられて(しかられて)
綾まったけど(あやまたけど) 仏仏と(ぶつぶつと)
高(たか)がしれてる松(ま)どしたろ

丸太町から松原通まで。

 

photo.talk-turkey.com

更新履歴

※2022年11月26日 当時の写真を使って、一部追加改変。
・京都の通りの地図を追加・花屋町通り追加・長江家住宅